私自身は、小さい頃に裸足で土を踏み、砂浜を歩いた感覚を覚えています。波が引くときに砂と一緒に足が水にさらわれる感覚。砂や土で遊ぶ手の感覚。裸足で土を踏んでいるのは、とても心地よいものです。脈動する大地のエネルギーとつながるのですから。

今の若い人や子供たちはいつも靴下と靴を履き、アスファルトやリノリウムや化学繊維といった人工的なものの中にいて、本来求める心地よさすらわからなくなっているのかもしれません。そのようなものの中では次第に何でもを、ただの物質として扱うようになってしまうのでしょう。悲しいかな私も知らず知らずのうちに、そういう行動をしてしまいます。

全てが単純に物質の世界では、その中で上手に振る舞い利益を得て生活することが生きる手段です。けれどもその中で私たちは本来の自分にはなり得ず、自分が何者であるかもわからなくなってしまう。

約1万年前、シベリアから北アメリカまで渡り狩猟や漁獲を行っていたコユコン族を調査した民族学者リチャード・ネルソンは、彼らによって絶滅させられた動植物はまったくなかったと書いています。

「伝統的なコユコンの人々は、自分達を見守ってくれる世界である多くの目をもつ森の中に生きている。自然の中を移動する人は、その場所がどんなに未開で、住まいから遠く離れ荒れ果てたところであっても、決して本当の意味で孤独にはならない。なぜなら彼の周囲の世界は目覚めていて、五感をそなえており、しかも人格をもっている。それには感覚があり、怒りを表すことすらある。そしてその世界は、いついかなる瞬間においてもしかるべき畏敬の念をもって扱われなければならない。」 「ワタリガラスに祈りをささげよ」より。

この世界は、こういう在り方なのです。
私たちが気づいて戻れば良いだけなのです。